笛吹童子の旅日記 

サラリーマン時代の思い出

笛吹童子の旅日記 1993年2月

当時私は、仕事に集中できず日々を無為に過ごすサラリーマンであった。それまですでに2

つの職を経験し3つ目の会社であった。既に37歳になっており家庭を持ってもおかしくない年齢だった。しかし、何か踏み切れないものが私をそうはさせなかった。

言い換えれば自分を見失ったまま好きでもないことを我慢し暮らしていくことだけに専念する、そんな人生に身を投じるとことが怖かったのだ。

新卒で就職したのは、大手ハンバーガーチェーンのマネージャーという仕事だった。当時週休2日制という企業は珍しく又給与もずば抜けて高かった。そんな外的要因条件に惹かれて選択した仕事だった。しかし、世の中そんなうまい話はなく仕事内容は、想像以上に厳しいものだった。

今、振り返るとこの好条件のからくりは単純だ。要に1人で2人分以上の生産性を上げるようにシステム化されていたのだ。2人分の生産性が求められる上、朝昼晩の交代制勤務で起こる様々な店の問題に全責任を負わされるという厳しいマネージャーという仕事であった。それに身体も心も疲弊し5年たった頃、そりのあわない上司とチームを組まされたことをきっかけに完全に仕事のリズムいや人生のリズムを失くしてしまっていた。そして、身体も心も悲鳴を上げた末に辞職してしまったのだった。

新卒採用の仕事をやめてしまった。その負い目もあり次に務めた清掃機械メーカーの代理店営業という業種の仕事に打ち込んだ。ちゅうどバブルがはじける前のことで世の中がイケイケどんどんという時制であった。職業紹介所で紹介してもらったその会社は、東京に本社があり福岡に新しい支店を構えたばかりだった。

これからどんどん支店を増やして会社をおおきくしていくというビジョンと希望にあふれた会社は、頼もしく思えた。その上司も優しく馬が合った。そんな中で上司からやり方を教わりながら始めた営業の仕事は楽しかった。

何よりある地域に出張と称して遠出をしたりビジネスホテルに泊まりがけで代理店と打ち合わせをするという内容は、以前の仕事と比べて自由度が高く、色んなところに行けるのも楽しかった。ある時には沖縄まで行って代理店の人と意気投合したり、絶景が拝める富士山のふもとにある代理店まで出向いたり、京都や山陰の温泉宿まで市場調査と称して行くこともあり旅好きの自分には、その点も楽しめた。

私は初めて経験する営業の仕事でマネージャー時代の経験を加えて少しずつ成果を出していった。そして気づかないうちに福岡から大阪、北陸、名古屋など各地の支店を盛り上げてくれと言われるまでになっていた。実績をあげて認められる、社会人としても認められた、そんな自分をほこらしく思い充実していた。

しかし、良いことは長く続かなかった。実はこれだけの全国支店開設や贅沢な社員旅行などは、元会社である不動産会社がバブルの特需を受けていたために実現できていたにすぎなかったのだ。

そのためにバブルがはじけ始めると、それまで潤沢な経費と給与を出していた親会社の不動産会社からの営業資金が渋り始めた。肝心の商品がなかなか届かなくなってきたり、営業経費が絞られ動きにくくなってきた。

当時私は、福岡から名古屋へ転勤していた。それは月に2回の実家近くの福岡までの交通費が出る約束の上での転勤だったが、それも当然打ち切りになった。

それまで月に2回も名古屋から福岡へ飛行機で里帰りに「お前は本当に恵まれている」と父親に散々羨ましがられたものだった。そして更に様々な点で社員への無理強いが多くなってきた。次第に私自身にもこの会社は、持たないとわかり始めた。「風と共に去りぬならぬ」「泡とともに去りぬ」である。

そこで再就職先として考えたのがセミナーで交友関係があった広島の製材関係の社長だった。マツダや住宅建築へ材木資材を提供している優良会社だった。「良かったら、営業職としてきませんか?」という有難い申し出だった。それこそ渡りに船だった。私はわらをもつかむ思いでその申し出を受けた。しかし、喜んだのも束の間、実際入社してみると営業部門のない会社で既に取引先が潤沢に注文をくれる、新規開拓が不要の会社だった。

更に実権を握っているのは私を入社させてくれた社長でなく会長であった。私が考える営業ビジョンは、通りそうもなかった。社員の人たちは社長の紹介ということで暖かく向かい入れてくれた。が、会社に行っても何をやっていいか分からず机に座り雑用をするだけの日々になった。当然のことながら周りの目が冷たく感じられ、自分の居場所がなくなってきたのであった。

そういう居心地が悪い日々を過ごしていた私だったが、広島に来てよいことがひとつあった。それは趣味である篠笛の同好会があったことだ。神楽が盛んなこの地域は、篠笛の愛好者が多かった。私は、笛を始めて5年になっていたが習った先生が民謡専門ということもあり、自分が吹きたいような曲がなかなか見つけられなかった。

しかし、この同好会は、まさに私が吹きたいと思っているような一人で吹く独奏曲の練習をやっていた。私は、初めて笛の仲間ができた気がした。更にその同好会は、合宿と称して色んな場所へ泊りに行ったりして各自好きな曲を仲間のまえで披露したりする活動をやっていた。まさに私がやりたかったことだった。この同好会での活動が楽しくて堪らない。これだけでも広島に来てよかった。それは、会社で元気を失った私が元気を取り戻す瞬間だった。

さて、広島のこの会社でこれ以上サラリーマンを続けることは無理だった。属することで生きてゆく、やりたいことを我慢して生きていく、そんなことがつくづく嫌になった。

ちょうどその頃に好きな作家の旅行記の完結版が発売された。主人公が少ない予算をやりくりしながら色んな経験をしながら世界を見ていくというノンフィクションは、まさに自分がこれから経験したいと思う教科書のように思えた。

そして、その本に触発されたこともあって、営業で培ってきたやり方を応用して何とか自分で輸入業という分野で自営業をできないかと思い始めるようになった。ちょうど笛の同好会で大工でもあり自営業をしているUさんが展示会を見にドイツを始めヨーロッパに行くと聞いて、これが何らかのお告げに違いない。そう思うことで自分を正当化した。そう」勝手に思い込むことにしたのだった。

私もヨーロッパまで同行しその足でインドまで渡り輸入業をしようと。

インドには、セミナーを通して紹介してもらったニューデリー在住のMさんがいた。彼もインドからの輸入業をしていた。ひとまず彼に逢い実際の輸入業について相談しよう。

今振り返っても無謀な挑戦であった。しかし、その時の私には、これしかないというところまで追い詰められた心境だった。