旅日記 フランス編(ヨーロッパからインドヘ)1993年2月

フランスの田舎町ディジョンへ

フランスの本当の良さは田舎にある。フランスというとパリを思い浮かべる人が殆どだと思うが、本当の良さは田舎に行かなければ味わえないとガイドブックなどで何度か目にしたことがある。ローマからパリに直行するまでにデジョンというフランスを代表する田舎町に寄ることにした。ローマからするとかなり北の方、それも高地になるので寒くなるだろう。

予想通り朝の薄暗い時間に着くと震えあがる寒さだ。多分氷点下だろう。デジョンの町は今まで訪れた中で一番ひっそりとしている。さすがにこの時期は観光客も見当たらない。しかし、ブルゴーニュワインとエスカルゴで知られたこの町はフランスの食糧庫と異名をとるほど名声を誇る。

いくらも歩かないうちにホテルが並ぶ通りに出た。古い洋館みたいなホテルがあったので部屋を見せてもらう。12,3畳の広さにベットとテレビ、大きなバスルーム、スチームの暖房がついていて3人で1万円以下の値段というのでここにする。案内の女性はどうお気に召してという顔をしている。

冷えた身体を暖めるために早速風呂に入るが、ヨーロッパの水は硬水というのだろうか。頭を洗うと、まるで小さな砂でも混じっているかのように髪の毛がゴワゴワし、口に含むと何か匂いがする。身体がサッパリすると急に空腹を覚えた。そういえば朝から何も食べていない。寒かったが空腹を満たすために3人で出かけることにする。人口の割にこじんまりとした町は歩いて散策するにはうってつけだ。

しばらく歩くとスーパーマーケットのようなデパートがあった。日本のデパートと比べるとこじんまりとしている。しかし、地下の食料品売り場はびっくりするほど充実していた。

見たこともないような食べ物が目白押しで又質もとても高そうだ。色々食べてみたかったが、選ぶには知識がない。そういうこともあってフランスパン、ワイン、ドイツビール(なぜかビールはドイツ製の小麦のビール)を選び、あとチーズをという段になってかたまってしまった。種類が多すぎて何を選んでいいかわからない。

そうこうしていると横のほうで主婦と思われる女性たちがチーズの量り売りに並んでいた。並んでいるということは美味しいに違いない。そう思った私はつられて購入することに。ホテルに帰って食べてみると、香りも良く,旨味もあり、豊潤さもありと素晴らしく、口に入れるなり歓声を上げてしまったほどだった。やはり、本場物には、伝統があり素晴らしいものがある。

さて夕時になり旅の思い出に名物のエスカルゴとブルゴーニュワインをこのホテルの食堂で食しようということになった。ブルゴーニュワインは、うまみ香りが素晴らしく旨かったが、エスカルゴの方はいまいちであった。バター焼きにしてあるのだが、塩辛い貝のようで取り立てて騒ぐほどの味でなかった。Uさんの父もこりゃ田螺の方がよっぽどうまかあと言っていた。

夜のデジョンは、かなり冷え食後の散歩も中止しておとなしく部屋でテレビでも見ることにした。すると、一風変わったドラマをやっていて面白く釘付けになってしまった。ストーリーは、ダウン症の10歳くらいの娘とその母親が暮らしているのだが、母親がまだ若く綺麗なので当然ボーイフレンドができてしまう。そして一緒に暮らすことになるのだが娘と男がそりが合わない。そして母親が働きに行って娘と男が家に二人でいるときに娘がドジをして男にこっぴどく𠮟られたせいで娘が家出をしてしまう。そしてそれまで恋に走っていた母親は母性愛を取り戻し男と別れる決心をする。実際にダウン症の人がドラマで演じ,起こりうる共同生活の問題点を取り上げて人間愛の尊さを投げかける。フランス国民の意識の高さを見せられたような気がしてため息が出てしまった。

そうこうしているうちに、私はヨーロッパのもう一つの目的が気になってきた。

それは、旅芸人が集まると言われるパリの路上でUさんと一緒に篠笛を吹いてみようという目的があった。それで、どの程度パリっ子の関心を寄せてもらえるかやってみようと考えていたのだ。

広島の篠笛同好会の先輩であるTさんらはここデジョンで数年前に羽織袴に刀を差しちょんまげのかつらまで被って笛を吹きながら大名行列をするという離れ業をやってのけていた。わたしとUさんはそこまではできないとしても、パリの地下鉄の通り道でお坊さんのような作務衣を着て、帽子を前において吹いてみようと企てていた。うまくいけばワイン代くらいの投げ銭が稼げるかもしれないなどとお互いに顔を見合わせてニヤニヤ悦に入っていたのだ。そのためには、少しでも練習しとかなくては。

     朝の笛の練習              Uさんのお父さんとホテルの部屋で食事

翌朝私とUさんは、手がかじかむ寒さのなか公園で練習を開始した。散歩中の男性がUさんの音色に聞き入っている。どうやらお互い腕は落ちていないようだが、氷点下の中で身体を動かさずにいるととことん身体が冷えてきた。何か温かいものを取りにカフェへ行くことにした。出勤前のおじさんらが一様にカフェオレとクロワッサンの朝食をとっていたので我々もそれに習った。私は最初紅茶を注文しようとしたが、フランス人の朝食はそれが定番のようであった、朝食後、散策していると珍味で有名なフォアグラの缶詰が目に付いた。たしかガイドブックには日本で1万円すると書いてあったものだ。それが四分の一の価格で売られている。これを両親や兄たち家族のお土産として持っていけば一生感謝されるかもしれない。節約旅行の中頑張って買ったこのお土産は、私の期待を裏切って不評そのものであった。

そうこうしている内に今回のヨーロッパの終着点のパリヘ行く日になった。ディジョンからパリまでは午前の電車でたてば昼過ぎに着くという。我々は、列車の中で昼食のために例のチーズやワインなどを買い込んだ。しかし、最初あれほど夢中になったチーズやフランスパンなどが、ご飯と味噌汁で育った日本人本来の体質に適応しなくなってきたのか、欧米料理に共通しているバターの脂に食傷気味になってきた。私よりも早くそれに気づいたUさんの父が「わしゃ、いい加減脂ぎった食べ物より、あっさりしたものが食べたい」と言って買った鰯の缶詰とビールを羨ましがるのだった。

一方列車は、そんな私にお構いなく着実にパリに近づいて行く。高度が下がってきたのか、寒々しかった景色がのどかな田園風景に変わってきた。いよいよパリだ。どんなことが待ち受けているのだろう。私は持て余したチーズをうんざり見つめながら思いにふけっていた。

パリに到着

名残惜しいような田園風景から次第に建物が増えてきた。どうやらパリ近郊まできたようだ。再びローマの時のようにスリに盗られないように注意しようと話す。大きな駅に着いた。人の多さに圧倒されてなかなかテンポについていけない。つかの間の田舎暮らしのリズムが抜けきらない。

とりあえず暗くなる前にホテルを探さなければならない。しかし、パリと言えば世界に名だたる大都会、いつものように行き当たりばったりに捜しては懐具合を超えるホテルにしかぶつからないだろう。そこでガイドブックを見ると下町のほうに安いホテルがありそうだ。地下鉄のメトロを利用すると、割と簡単にパリは行きたいところに行けるらしい。メトロで北の方に向かう。パリにもジプシーのスリがいるとガイドブックに書いてあるが今のところ見当たらない。

2,30分で目指す駅に着く。出口の階段に髭をキチンと整えた紳士が威厳を持って立っていた。よく見ると、その紳士が缶みたいなものを持っている。最初は何だろうと思ったが、ルンペンさんであった。いくらか恵んでほしい、しかし媚びることはプライドが許しませんという態度であった。

外に出ると下町という感じで小さな食料品店がボチボチとある。しかし町全体が暗く夜みたいな感じの路地裏だ。何件かホテルを捜すと安いホテルガ見つかったが受付のみがフランス人の女性で他の従業員はインド人のようだ。部屋を見せてもらうとその狭さと不潔さにがっかりする。同じ値段でパリとディジョンは天地の差だ。仕方なく今夜の宿はそこにする。

気が付くと夕方になっている。宿で食べる夕食の買い出しに行く。真向いに食品店があったのでそこに入る。そこのおやじさんもインド人ということで置いてある食品も香辛料などインドのものが多い。おやじさんが言うには、この周辺はインド人街という。一応ワインもあったが異常に安い。このところ夕食にはみんなでワインを飲むようになっていたので1本購入する。埃を被ったようなその瓶は何か怪しげであったが、不安は的中した。飲んでみるととてもワインというものではなくペッと吐き出してしまった。どうやら味が変わって酢か何かに変わっているのかもしれない。

ディジョンでは目をつむって選んでもそこそこ美味しいワインに当たったものだからフランスのワインは一様に美味しいものと錯覚していた。しかし、同じフランスでも移住した外国人たちは勿論ワインを飲まない人もいればフランス人のような食文化もないので仕方ないかもしれない。

それから、狭く汚い部屋でワインなしの夕食が始まった。何だか心まで冷え冷えとしてきた。みんなも同じ思いだったらしく明日は別のホテルを捜してみようと言うと意見が一致した。ふと窓から外を見るとアパートの炊事場みたいなところで主婦らしい女性がせっせと夕食を作っているのが見えた。それはこのパリで慎ましやかに暮らしている家族を彷彿とさせた。これから一家団欒で温かいものを食べながら今日の出来事でも話すのかもしれない。そう考えていると、さっきまでの底冷えしたような心が少し暖かくなってきたので不思議だ。

翌朝、1階の食堂(と言ってもフロアーにテーブルと椅子を即席に置いた所)で朝食を取る。中身はフランスパンとバター、ジャム、それにカフェオーレかティーバッグの紅茶という内容。私はコーヒーが苦手だったのでティーバッグながら紅茶を出してくれたのが嬉しかった。こんな質素なホテルでもフランスパンだけは当たりはずれがなくとても旨い。

朝食後、人心地した我々は、近辺でホテル捜しをすることにした。良さそうなホテルを見つけて値段を聞くがこちらの懐と折り合わない。そうこうしているうちに急に明るい路地に出た。不思議なことに通りがひとつ違っているだけなのにこちらは太陽が余計に降り注いでいるという感じなのだ。花屋、総菜屋、お菓子屋、酒屋などが通りを挟んでとても華やいだ雰囲気だ。おまけに手頃そうなホテルまである。なんと値段は昨夜のホテルと同じだ。部屋を見せてもらうと質素だが奇麗で2階の窓からは通りの様子も見える。早速ホテルを移ることにした。

ホテルを変わってみると、この周辺がなかなか良い場所だと分かってきた。車の行き来の少ない往来、庶民生活を支える親しみやすそうな店、そんな感じの店が丘に向かってずっと続いている。色んな店を覗きながら見晴らしの良いモンマルトルの丘まで散策すると、そこにはパリの下町を一望できるような高台になっている。寺院を囲んだ広場には子供連れの家族、老人たち、観光客らがたむろしている。彼らは寺院に入ったりパリを見下ろして物思いにふけったり、展望鏡を覗いたりしている。また、芸術の都らしく、画家や似顔絵かきがいる。若い男女の似顔絵かきが客を募っている。今日の稼ぎを得るために頑張っているのかもしれない。

ただ、難民のようなアフリカ人らしい若い男らがおもちゃの玩具をしきりに飛ばして要らないかと言ってくるのが玉に瑕である。その多少威圧的な物売りたちが、せっかくのモンマルトルの丘の雰囲気を壊している。さて我々は、お上りさんよろしくこの町からシャンゼリゼ通りなどの有名な中心地なども歩いて回ったりした。そして都心の喧騒に疲れるとこの下町に帰ってきて心を休めるということを楽しんだ。

ルーブル美術館 エッフェル塔 見物

さてUさんが言うには、フランスでルーブル美術館だけは絶対見逃してはならないという。日本では、殆ど美術館巡りをしない私もUさんの話を聞くと美術鑑賞が人間にとって欠くべからざるもののように思えてくるから不思議だ。多分それはUさんの芸術に対する関心の深さと洞察がこちら側に熱情を持って伝わるからだろう。

しかし、いよいよルーブル美術館へ行こうという日になってUさんが風邪を引いたらしく頭が痛いという。おとなしく薬を飲んで休んでいた方が良さそうだということになりUさんの父と二人で行くことにする。Uさんは、既に行ったことがあるので、彼が話した美術品がいかに素晴らしいか、それを味わって来て欲しいと言う。

                         エッフェル塔の展望台 後ろは知らない人

メトロで行くと既に入口は長蛇の列であった。それから広大とも言える館内を歩き回るが、有名な美術品の前では、押し合いへし合いで人の流れに押されて落ち着かない。ここルーブル美術館では、有名な美術品をゆっくり鑑賞するということはなかなか難しいようだ。特に有名な「モナリザのほほえみ」の周りはちょっとしたコンサートがあっているのではと思わせる程の黒山の人だかりだ。あまりにも貴重なこの絵は、光を充てるのさえ憚れるのか、本で見るよりも暗い印象を受ける。

本当に美術品が好きな人にはルーブル美術館は、一週間あっても物足りないかもしれない。しかし、いつものUさんの面白い解説がないからだろうか、私とUさんの父は3時間ほど鑑賞するとどれも似たり寄ったりに思えてきて疲れてしまっていた。もうそろそろ昼になったな、もう美術品の鑑賞は十分、昼飯はどうしようと思っているとUさんの父も同じ考えだったようで、お互いに目を合わせて出口に向かったのであった。

ミロのビーナス              

パリでのランチ

パリに来てからというもの、まだ外食をしたことがなかった。ちょうどランチタイムでもあり、レストランでサービスタイムのセットメニューを食べようということになった。パリで夕食のディナーという贅沢は頭になかったが昼のランチメニューなら安くてそれなりに満足できるだろう。イタリアの時だってランチメニューは安くて美味しかった。小ぶりなレストランが並んでいるところに行くと黒板に本日のメニューが書かれてある。フランス語は読めないがそれらしい。適当に人が入ってそうな店に入るとビジネスマン風の人で程満席状態だ。みんな昼休みなのにテーブルワインなどを飲みながらご満悦の様子。

パリのランチ 牛肉 羊 豚

日本と違い昼休みが長いのでイタリアでは、食後シェスタと言って昼寝する人もいるというから仕事は二の次で人生を楽しむことが優先するという訳か。

さて、いざ注文をしようとすると眼鏡をかけたひょうきんそうなウェイトレスに全く英語が通じない。いくら何でも簡単なメニューくらいは大丈夫と思っていたが。周りの客がことの成り行きを好奇心いっぱいで見ているのが伝わってくる。このレストランは、どうやらこれまでフランス人の常連しか来たことがないらしい。さてどうしたものか。

ユーモラスなウェイトレスが身振りで3種類のランチメニューがあることが分かった。しかし、その内容がどういうものかが分からない。翻訳機を取り出して捜してみるがふさわしい翻訳が見つからない。私は魚が食べたかったのでフィッシュと言うのだがそれが通じず何のことという表情だ。

ちょうどその時に他の客のランチが運ばれてきたのでウェイトレスがそれを指さしてくれた。ひとつの皿はステーキというのが分かった。二つ目は生肉のたたきの真ん中に生卵がのっている。三つ目はなにかの動物を焼いたもののようだが、何の肉かは分からない。

愉快なパリのウエイトレス

これは何の肉と尋ねると通じたみたいだがどうやって説明しようかとしばし考えてウェイトレスは、突然一つ目の皿をさして「モーモー」と言った。こちらは当惑しながらも分かったと慌てて頷く。次に二つ目の皿を指さして「メェーメェー」というので更に慌てふためながら羊というのも分かったと頷く。最後の皿に至っては「ブーブー」というのでこれも豚と分かりましたと頷く。おかげでオーダーガ終わるころには、店の客全員の注目を集めてしまった。しかし、こちらが見返すと紳士らしく慌てて視線を戻されていた。

結局二人してステーキが無難だろうということで注文したが、その肉のかたいこと。ゴムのステーキといってもいいほどの硬さであった。おかげで食べ終わるころには顎がどっと疲れてしまった。日本の牛肉は世界でも美味しいことで有名だがこれは肉そのものの柔らかさが一因していると考えさせられた経験だった。そんなことをおもいながらそのステーキを鍛錬でもするように噛みつづけた。

昼食が済むとお上りさんらしくエッフェル塔へ登ったりデパートを冷やかしたりして都心を満喫してホテルに帰ることになった。

パリの地下鉄で再びスリに

さてホテルまで帰ろうと地下鉄に乗ると男のスリが近づいてきたのが分かった。我々が列車に乗り込もうとしていると降りたばかりなのにこちらに注目して再び乗り込み近づいて来たからだ。ローマと違ってビジネスマン風の上品な恰好をしている若い男だ。もうひとり相棒がいるらしく目で合図をしているのがわかる。きっとカモを見つけたと言っているのだろう。

しかし、ローマの一件いらい、挙動不審な動きをする人間にはすっかり敏感になっていたらしい私はすぐに見抜けたのだった。

Uさんの父に気をつけるように言うと「えぇ!どこどこ?」と言ってキョロキョロ周りをみて騒がれるので慌ててしまった。スリというのは現行犯なのであからさまに相手を見て騒ぎ立てるとどんな因縁をつけられるか分かったもんじゃない。幸いなことに電車は空いていて身動きが取れる。またターゲットは私のようだ。その男はマフラーを手に巻きつけている。後ろに来て財布を取ってマフラーに隠すつもりだろう。男は服装は違ってもローマのジプシーとおなじ目つき、雰囲気を持っていた。彼らにはスリのマニュアルがあるのかもしれないが、この男はまだ熟練度が足りないようだ。

ここは男を私に後ろに来させなければいいと分かった。私が何気ない様子で車内の端っこに移動すると男も何気ない様子で隣の後ろに移動してくる。そしてふと何かを思い出したように今度は車内の真ん中に移動するとまたついてくる。それで今度は数人の主婦らしい女性たちが座っている四人用の座席に座ると隣に座ってきた。

そこで私はまた何かを思い出したように立ち上がり通路の真ん中に移動した。今度は赤い顔をしてついてこなかった。いくら何でもこう私の痕ばかりついてくるのも不自然だとスリもわかったのか。ローマのジプシーに比べるといささか紳士的?なスリさんであった。そして電車を降りてドアが閉まってから彼らを見ると悔しそうな顔をしてこちらを見ていた。Uさんの父に彼らですと言うと「あぁ!あん人たちねえ、そうねぇ」と言って今回は、無事にやり過ごすことができたのであった。

ホテルに帰るとUさんはすっかり良くなって、久々に日本食が食べたいと言っている。きっと風邪から回復したからかコメのご飯が恋しくなっているのだろう。日本食が食べたいのはやまやまだが、フランスで日本食というと高くつかないかが気になるところだ。しかし、ラーメンでもいいから日本の味付け、ダシ、みそと醬油などが懐かしくて堪らない。それに明日は路上で篠笛を吹く日だ。日本食でも食べなければ日本の笛なんて吹けやしないなどと都合の良い言い訳を正当化した結果、皆で日本料理を食べに行くことにする。

ガイドブックで捜すと比較的安く食べられる店があるようだ。さっそくメトロに乗って奇妙な日本語を話す店員がいるラーメン屋へ行った。味噌ラーメンが750円位なのでこれなら大丈夫だ。店内ではいかにも日本のギャルといった女の子らが食べている。彼女たちは申し合わせたようにブランド品で身を固めて買ったばかりのヴィトンのバッグを脇に置いてラーメンをすすっている。ブランド品とラーメン定食が不釣り合いだ。きっと彼女らも最初の方はフランス料理を食べていたのかもしれないが、日本のだしの食文化で育ったことだけはブランド化できず日本食が恋しくなったのだろう。

さて久しぶりにラーメンとご飯を食べると、生き返ったように美味しく感じられた。思いのほか味付けも良くご飯はもち米のように粘りもある。明日は良い演奏ができそうな気がしてきた。その日はワクワクしながら床に就いたのであった。

パリの地下鉄構内で笛を演奏

翌日メトロに乗って演奏場所に適した場所を決めようということになった。しながら実際に行ってみると、ここだという場所が見つからない。良さそうな場所はジプシーのバイオリン弾きが既に演奏していたり、人が殆ど通ってなかったりと。良い場所は既に先約済みなのだ。しかし、あっちこっちうろついてばかりもいられない。

アフリカの太鼓?

とにかく、やってみようということになりある場所に決めるが、すこし離れた場所に奇怪なコスチュームをした黒人の大男がアフリカの太鼓のようなものをドコドコ叩いているのであった。Uさんと私は、ここまで離れていれば文句を言われないだろうと思わせる場所まで来てお坊さんが来ているような作務衣に着替えて前には帽子を裏返して置いた。これには我々の演奏に感動した聴衆が投げ銭を入れてくれるという算段だ。

しかし、いざ演奏するとなるといつもは積極性を売りにしている私とUさんなのに、この時ばかりはお互いに譲りあうといった謙虚な日本人に早変わり。しかし、躊躇ばかりもしていられない。ということで私が先陣をきることにした。

吹く曲は十分検討してあった。篠笛の特徴を生かした高音部をフルに使ってフルートにもピッコロにも表現できない雅な響きを奏でることができる。

さて吹き始めると主婦らしい黒人女性がちんどん屋でも見るような顔をして聴いている。しかし、3分もしない内にアフリカン太鼓の大男が駆けつけてきた。こちらが二人だと知るといささか気勢をそがれたみたいだったが、何かクレームを言いに来たみたいだ。言葉は分からないが、どうやらあんたたちの笛の音は俺が演奏している場所まで響いてきて商売あがったりだみたいなことを言っているらしい。地下鉄の構内で篠笛の高音はこちらの想像以上の音の大きさだったようだ。

ここで笛を吹かれちゃ困るんだよと言っているみたい

彼が言おうとしている要点は、各演奏者の縄張りのようなものがあって、それを守らなければならないと言っているのだろう。人の商売の邪魔をするわけにはいかない。そういうわけで日本の篠笛の音色に感動した聴衆から投げ銭をもらうという目論見は灰と化してしまった。全く吹かなかったUさんは、多少心残りがあったようだが、私は曲がりなりにも3分ほどはパリの地下鉄構内で吹くことができたからか、それほど後悔はなかった。

これでヨーロッパのでの最後の目的も一応終わった。Uさん親子は、さあ日本に帰るぞと張り切っている様子だ。旅の楽しみのひとつは出発前のワクワクとあとは家に帰る時かもしれない。それこそ今回のように2週間の長旅の場合は故郷の懐かしい人との再会や好物の食べ物が待っているといった感じだろう。彼らの表情を見て私は寂しいような羨ましような気分になっていた。しかし私の旅はこれからが本番。ここから再び飛行機に乗って更なる旅を続けなければならない。私にとって未知の国、インドへ。それも独りで。

今から帰るよ!

Uさん親子が帰ると私は置いてきぼりを食ったような寂しさを覚えた。本来ひとり旅が好きな私も彼らとの旅は余程楽しかったのだろう。三人で行き先を決めて行動して食事を共にするといったパターンから何事も独りで決めて一人で食事をするといった形に変化すると心にぽっかりと穴が空いたように気になった。しかし、これからは独りで旅していかなければならない。

ベルサイユ宮殿へ

インド行きまでまだ4,5日ある。気を取り直した私はガイドブックをペラペラめくってみた。近郊である程度興味をそそられる場所。ベルサイユ宮殿という所が目に留まった。

かの有名なルイ14世が当時の贅を尽くして建てたという宮殿。今の寂しさを埋めるにはうってつけだ。

さっそくメトロを経由して駅まで行きベルサイユ宮殿までの切符を買おうとした時だった。日本人らしい二人組が同じ行先の切符を買おうとしている。一人は学校の先生か公務員を思わせる眼鏡をかけた40歳前後の男性、もう一人は少し長髪の30歳位の男性で革ジャンを着ている。日本人に違いない。Uさんらと別れて寂しく感じていた私は無邪気に声を掛けた。

「こんにちは。ベルサイユ宮殿へ行かれるのですか?」しかし、戻ってきた返事は英語それも中学の先生みたいに聞き取りやすい、日本人向けと言っても良い発音で「我々は、韓国人です」との返事。「これは失礼いたしました。私の学校時代の先生と良く似てらっしゃったのでてっきり日本人の方と思いました。」「我々もこれからベルサイユ宮殿へ行くつもりです。ご一緒しましょう。」ということで彼らと同行することになった。

日本人じゃないです。韓国人です。よろしく

電車の中で自己紹介をする。彼らは商社に勤めるビジネスマンで日本とも取引をしているという。年配の方は学校時代アメリカに留学して英語を勉強したとのことだった。英語の聞き取りが苦手な私にも聞き取りやすい英語を話してくれる。多分韓国も日本と同じような教育システム、発音をカタカナでフリガナをつけるようなやり方で勉強してきたので聞き取りやすいのかもしれない。顔つきや表情は日本人だが話す言葉は英語。なんだか中学の先生から英会話のレッスンを受けているように感じた。こういう先生がいて教えてくれるなら私の英語も上達するかもしれない。なぜなら英語の授業で学んだ単語や構文が出てくるので少しずつ自身が沸いてくるからだ。アメリカ人に学生時代に習った単語や構文を使うものなら、どうしてそんな難しい言い回しを使うのか、それより基本的な発音をちゃんとしましょうと発音の訂正ばかりをやらさせるので次第にやる気を失くしてしまう。

というわけでベルサイユ宮殿の中を彼らと一緒に英語の勉強をしながら見学した。若い方の革ジャンをきた男性は、やや内気な感じで必要なこと以外話さない。贅を尽くした宮殿の見学が終わると噴水のある大きな庭に出た。晴天で多くの観光客が写真を撮っているが日本の学生がやたらと目立つ。年配の方の男性がどうにも納得のいかないという顔つきで聞いてきた。

「どうしてあんなに多くの日本人学生が来ているのでしょうか。彼らは余程お金持ちなんですか?韓国じゃ考えられない。」私はいささか恥ずかしさを覚えながらも、慌てて弁明した。「かれらの全部がそうではなく多分アルバイトでためたお金で卒業旅行に来ていると思います。」「いや、それにしても学生である彼らがフランスくんだりまで来るとは豪勢ですねえ。」言われてみれば日本人みたいに卒業旅行でヨーロッパにまで来てそうなのは当たらない。

ベルサイユ宮殿の見学が終わると一緒に昼食を食べようということになったが、私の身なりが貧相に見えたのか、ご馳走してくれた。卒業旅行がヨーロッパというリッチな国にも貧乏人がいると感じてくれたかもしれない。

さていよいよ明日はインドヘ立つという日になった。ヨーロッパの旅が楽しかったせいかインドも楽しい旅になるだろうと思えた。その頃の私はその後に起こることなど夢にも考えないのんきものだった。