インド編 日本へ帰国
さて名残惜しい気持ちを抱いてインドヘ帰る日になった。2月の初めに旅に出てもう4月の2週目になっていた。ヨーロッパからすると2か月半近く旅をしていることになる。カトマンズの空港の免税店でお酒を買うと更に円高になっていた。空港のスタッフはここまで円高になっていることとは思わず私がこれはもっと安いんじゃないかと抗議するとなにやらノートを取り出して確認した。すると案の定値段を安く訂正してくれた。
飛行機は200人乗りで約1時間半のフライトでカトマンズからニューデリーに夕方の6時頃に到着した。時差は15分で再び喧騒のインドへ帰ってきた。そしてあの懐かしくて騒がしいメインバザールで再び宿を取った。料金は200ルピーでこれまた安いのは嬉しいがとにかく周辺で音楽を大きな音で鳴らしている店が多くこれが心身共にストレスであった。せっかく良くなりかけたお腹の調子が再び悪化してきた。ネパールなら静かなのにメインバザールに来るとこれだ。どうしてこうもうるさい音楽を朝から夜まで鳴らすのかのかわからない。
再びのニューデリーは、なぜかつきものが落ちたように落ち着いて過ごせた。後はどんなものを商売に選択するということでMさんと再び色んなものを見ながら歩き回った。そして色んなサンプル品を購入し日本の実家に送った。そんなある日コンノートプレイスに行ったときに蛇使いがパフォーマンスをしているのに出くわした。本物のコブラだ。毒は大丈夫なのだろうか。
こちらに来てから初めての大道芸に怖いもの見たさのワクワクした感じで近づいて行った。蛇使いは私を見ると何と蛇を首に巻きつけた。不思議に怖くはなかった。私は元々蛇が嫌いで見るのも嫌なのだがこの時は不思議にも蛇使いの蛇が友好的な感じで蛇と一緒に写真を取った。蛇使いは写真を撮ると50ルピーとお金を請求してきたが他にも観客がいたのでそれに紛れて10ルピーを渡して立ち去った。私もインド人に対して強気の交渉ができるようになりそこを立ち去ることができた。
後は日本に帰る日をエアインディアのオフィスに行って決めるばかりとなったが、自由に期日を決められるフリーチケットからなのか中々日本への席が取れないという。結局1週間ほどオフィスに通い詰めてようやくシンガポール航空の飛行機で日本に帰ることになった。しかし、地元の福岡でなく大阪に行く便しか取れないという。大阪からは自腹で新幹線で福岡に行かなければならないことになった。
このあまりにも難航する交渉をしているともう日本に帰れないじゃないかと思いが浮かんできたりもした。まさにインドが私を返してくれない。そんな長い交渉だった。ホテルを喧騒のメインバザールからコンノートプレイスのYMCAに変えることにした。少しでも空港に近い方がいいように思えたからだ。宿代は275ルピーでメインバザールよりもやや高かったが思ったほどではなかった。
メインバザールと違いこちらは大分静かだ。ホテルのスタッフは私がインド初心者と思ったのかしきりにパックツアーを進めてくる。断ると「WHY?」と何度も聞いてくるのだった。興味がないと答えると不思議そうにしていた。ただこちらは静かだったがメインバザールと違い商店が近くにないので不便だった。肝心の食事は全体的にが塩辛くデザートのプリンも美味しくなかった。
翌朝Mさんとコンノートプレイスを歩いていると露店でマンゴーを売っていた。いくらと尋ねると1キロ80ルピーということでMさんによるとメインバザールの4倍位高いという。それでももう食べられなくなると思うと食べたくなり500g買ってみるが食べるには熟してなくて硬かった。
いよいよ明日は、日本へ帰国の日になった。本当にこれでインドにおさらばできるのだろうか?飛行機の出発が早いので4時にはホテルを出なければならない。早めに床につくが熟睡できないまま夜を過ごし3時45分にロビーへ降りていく。ホテルにタクシーを予約して貰っていたので今回は安心だった。玄関の前に泊まっているタクシーの運転手が寝ていたので起こして乗り込む。タクシーのダッシュボードにはインドの神様が飾られていた。このインドでは見慣れた神様たちともお別れ、インドともおさらばだ。早朝の道路はさすがに空いていて空港まで25分で着く。
デリー発のシンガポール航空は予定通り6時50分に離陸した。そして2時間ほどで中継点のボンベイに到着した。ここで1時間ほど停泊してシンガポールへ向けて飛び立った。席が窓際だったので外を見るとインドの南の方が半島のように見えた。やっとインドの旅を終えた。人生で最大の旅が終わった。やり切ったという感じが湧いてきた。
インドの旅は、私にとって大きな人生の課題というか痞え(つかえ)が取れた気がした。誰からも指示された訳ではないが自分の中でやらなければならないことのひとつにしていたようだ。「これをやっとかなければ人生後々後悔するぞ!」と自分にいつも間にか言い聞かせていたようだ。多分、わたしのような旅でなくとも人は四国巡礼の旅を終えるとこのような気持ちになるのではないだろうか。窓から南インドの大陸を見ながらの旅を振り返っていた。これで私の中のひとつの人生が終わる、そんな感じがした。
さてシンガポールには私の時計で2時半に到着したが現地時間は既に夕方の5時10分になっていた。初めてのシンガポールの空港だったがその広さと清潔さに圧倒された。チャンギ空港というらしい。後でわかったことだが、快適なことで世界的に有名な空港らしい。私のチケットはここから大阪にしか行けないということになっており、なんとか福岡に変更できないだろうかと考えた。沢木耕太郎氏の旅の本では男性職員が到達点を変更してくれる場面があったので挑戦することにした。しかし係りの女性はかたくなな感じで福岡に変更して貰えないかと頼んでも安いチケットということを理由に了承してくれなかった。
仕方ない、大阪から新幹線で福岡に行かなければならない。シンガポール航空は、清潔でサービスも良いがただひとつ気掛かりなのは日本向けの出発時間が夜の深夜に設定されていて午前に日本に着くようになっていることだ。これが他の航空会社だと到着時間が様々でその日の午後に到着できたりする。シンガポール航空の場合、たとえシンガポールに朝に到着したとしても日本への出発は必ずその日の深夜の1時とかになっており、できるだけ長くシンガポールに滞在せざるを得ないようになっている。
大阪空港には予定通り朝の8時15分に到着した。2月の初めに日本をでたので約2か月半の旅であった。久しぶりに日本語を自由に使えるのが嬉しい。Mさんから重い荷物を預かっていて着払いで送ってくれと言われていたが着払いはできないと言われ元払いで払う。空港バスで新大阪駅へ向かう。10時過ぎに到着して10時40分発のひかりで博多に向かう。そして夜の7時には長崎の松浦市の島に到着したのだった。父と母が長い旅から帰った私を迎えてくれた。
その後しばらく長崎の自宅に滞在してから福岡に拠点を移した。色んなものをインドから仕入れたがその中で草木染の染料を欲しがる人がいた。偶然にもそれを今まで培った営業の方法で販売すると徐々に扱いたいという取引先も出てきて安定した収入を得られるようになった。
篠笛の演奏活動に関しては、ある時日本庭園で演奏依頼されたのを新人の新聞記者が記事にしてくれたことをきっかけにNHKの全国版のテレビ出演まででき問い合わせがくるようになった。そして乞われるままに教室を開いたり和太鼓チームから指導の依頼がきたりした。
その後の生活は憑き物がとれたように自分の都合で休みもとれたり海外への旅もできるようになった。勿論インドヘも数度行った。2度目以降のインド旅は、以前のような苦労をすることもなくなったが。収入も安定し好きな篠笛の演奏活動もできるようになった。それは、まさに旅立つ前に描いていた生活だった、
この旅に発つ前にある占い師から「インドの神様から好かれるかどうかで旅の良し悪しが決まるでしょう」と言われたのを思い出す。旅の最中は大変な苦労をさせられたがインドの神様はその後の人生までのことを考えて私を鍛えてくれたのかもしれない。30年前の旅を振り返るながらそう考える今日この頃である。